脳と外界と俗
5月に、初めて東村山のハンセン病療養所内にある資料館に行ったんだよ。ハンセン病詩人の展示をやってたから。常設展だけで、見るの3時間かかった。詩は、恋愛のことがつらかったな。
療養所内の通い婚って、初めて知ったよ。差別って、されてる側の人やいろんな人が運動して少しずつ解消されたり、解消される方向にいくこともあるけど、それってすごいきついよなって思う。希望も感じるけど、そもそも差別がなければそんな運動する必要もないわけで。今の世界にも日本にも山ほど差別がある、じぶんも感じるし知らないやつもいっぱいある。
ハンセン病ってずーっとあったのに、時代劇には全然描かれてないなって気づいた。この間観た「福田村事件」には出てきた。昔読んだ三国連太郎の「白い道」にも出てきた。北条民雄は読んだ。自然で、ふつうに自分にも起こったかもしれないこととして読んだよ。
差別とか偏見とか、暴力とか、貧困とか、権力とか、戦争とか、有害物質とか結果気候変動とか、そういう人間のシステムに、脳がやられてしまう。そんな世界の中での自分の煩悩の毒にもやられる。ミクロとマクロはつながってる。どうしても消えたくなる。小さい脳と外界のうねりは連動している。自分の中のミクロでマクロな差別意識や偏見、その他破壊衝動や破滅的思考を意識的に意識している。世界と自分の、持続可能な部分を知ろうとして生きている。
方丈記をはじめて全文読んだ。やっぱり長明に共感する。でもひとりで山に住むのは嫌だな。きつくてもまだ俗にまみれていたいな。長明みたいに50歳になったら山に住みたくなるかな。
私は活動家にはなれない、上手な生活もできない、ただのフィルター、フィルターとしての自分を生かしておく義務がある。
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